家の目の前にある蕎麦屋さんにいってきた。
住之江駅前の食べログ1位でもある『慶俊庵』。
歩いて3秒(さんびょう)の距離。
ランチなのに予約しないと入れない。
というか予約も1~2日前では無理。
限定20食。で、飛び込みで何度か聞いてみてたんですが、いつも「本日は完売」
ただ、今回はラッキーにも空いてる、とのこと!

店構え。

中に入ると。
こういう細工もいまの時代は入手不可能。
入った瞬間、連想したものがある。
それは伊達正宗の御馳走という言葉。
稀代の料理人である彼は、客人をもてなす、ということはどうあるべきかということを説いて、御馳走という言葉を広めた人物である。
嫁も、「馳走って感じだね」と言った。
なかなかやるな、と思ったが、それはこの空間がまさに、お店ではなく、「作法」のやりとりを行う場所であるかのようなところだからだろう。
文化の表現の場所以外に考えられない。
・・・・
それよりも、なんつーか、
旅行に行ったような体験を得た。
このお店は文化の塊。
オーラがある。。。
というかここのおかみさんがすごい。
昭和22年生まれにも関わらず、
肌がピカピカ。
最後はお客さんもいなくなり、
蕎麦について色々語って頂いた。
これ何年続いてるんかな?
僕が思ったのは、大阪にもう30年近く住んでいるけど、何も大阪のことを知らないな、と。
大阪といえば、品がない、うるさい、金に汚い、なんていうマイナスイメージも多いけど、こういった室町の時代から作られてきた文化というのは確かに存在する。
文化というのは何だろうか?
僕からいえば、この目の前の優雅な婦人。この人物の所作、表情、みのこなし、発する言葉、作り出す空気、これ以上のリアルな文化はなく、住之江の文化を凝縮したような方。
この凛とした空間、店構え、こんなオーラがある店はなかなかお目にかからない。茶室や道場のような雰囲気。
旅行の目的が非日常だとしたら、
僕にとっては、このお蕎麦屋さんや隣の長屋、この半径50mがもはや旅行なのだ。
旅とはなんだろうか?
Find something・・・
何かに出会いたい、何かを探したい、というのが目的であるなら、物理的な距離というのは意味を成すのだろうか?
沢木耕太郎は深夜特急でこう書いた。
『彼らがその道の途中で見たいものがあるとすれば、仏塔でもモスクでもなく、恐らくそれは自分自身であるはずです。』
家を捨てる。
もう旅に非日常を求めるのはやめて
日常にドキドキを求めよう。
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